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乙嫁語り
2009/11/05(Thu)


「ソマ湖のあたりは狼が出る」というチャガップ老の言葉が終わる前に、少年は愛馬に跨り駆け出した。

その湖は豊かな草原と灌木の林をそこここに抱え、遠くに険しい山岳を見はるかす。
夕刻間近の陽光が湖面を橙色に染め上げる。
見慣れたソマ湖の光景が少年の目の前に広がっている。
少年はその光景の中から、自分が見つけるべき姿を求めて頭をぐるりとめぐらせた。

動くものを視界の端でとらえ、少年はそちらに視線を向けた。
小さな影を追いかける大きな影。
小さな影はウサギ、大きな影は人が駆る馬とわかった。

風のように馬を操るその人影は、明らかに弓矢を携えた女性のものだ。
少年の目が、馬上の女性を凝視する。
自己主張を余りしない、おとなしやかとも言える様子は影をひそめ、鋭い眼光が獲物を見据えている。
濃い茶色の馬体が風を切って疾走する。馬上には赤と黒を基調にした鮮やかな衣装に身を包んだ女性。
人馬一体となってウサギを追うその姿は、まるで野を駆ける鷹のようだ。

飛ぶように逃げるウサギ、追う人馬。ウサギは巧みに進路を変えつつ、何としてでも背後のものから逃げおおせようとするのだが、それを見越した人馬の動きはウサギの逃走を許さない。
女性にとっては、追われ慣れていないソマ湖のウサギを追うのは児戯にも近い。
ウサギが射程距離に入ったのを見て取った女性は、手綱から手を離して弓を握り、矢筒から矢を1本抜き取った。
馬は彼女の意を酌んでウサギを追い続ける。
ウサギは全力で逃げ続けるが、次第に馬が背後に迫る。
女性の目に、ウサギが大きく映る。この距離なら確実に仕留められると踏んだか、彼女は馬の胴を腿で強く挟んで身を起こし、矢をつがえた。弦を引き絞り、ねらいを定める。眼光が鋭さを増す。
女性が弦を引き絞ったのはほんの数瞬か、あるいは数秒か。
鋭い震動音を立てて弦を離れた矢は、彼女の視線に導かれるようにウサギの脇腹に刺さった。
小さな声を上げ、ウサギはそのままの勢いで跳ねて転がった。もうぴくりとも動かない。
絶命したのだ。
彼女の狩りは成功した。

女性は馬の速度を緩めつつ倒れたウサギに近付き、身を乗り出してウサギの脚をつかんで持ち上げる。毛皮にもほとんど傷が入っていない。これなら胴着に使える。
ウサギの脇腹から矢を抜いたときに、自分を見ている小さな影に気づいた。
ここ数日ですっかり見慣れたその人影の方向に、馬の頭をめぐらせた。

少年が見守る中、小さかった影が段々大きくなってくる。
先ほどまで風のように疾走していた馬とそれを操る人影は、今はいつものような穏やかさを纏っている。
背後に夕陽を背負っているので表情はなかなか見えなかったが、表情がわかるほど近づいたところで、女性が朗らかな笑みで腕を掲げた。
その手には、3羽のウサギが束ねられている。

少年の名は、カルルク・エイホン。12歳。
狩りをしていた女性は、アミル・ハルガル。20歳。カルルクの妻である。



表紙がいきなりすばらしいので、大きな画像でご紹介。
乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)乙嫁語り 1巻 (BEAM COMIX)
(2009/10/15)
森 薫

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こんな感じで『乙嫁語り』は始まります。
本屋で新刊コーナーをぼんやり見ていたら発見したので即お迎え。
『エマ』で一躍名を馳せた森薫さんの新作は、何と19世紀半ばの中央アジア。
シャーリーでエマだったから、次も英国かなーと思ってたんですが、驚き。
でも、微に入り細に入った描き込みは相変わらず…… というかむしろ本領発揮といった風情です。

この時代、顔も知らずに結婚というのはよくあることですが、年まで知らないまま結婚したカルルクとアミル。
カルルクの家、エイホン家は数代前に遊牧生活を離れ、今は定住して羊を育て、売って生計を立てています。割と大きな家柄みたい。カルルクのほうが都市的で、服装も少し軽やか。定住して牧畜ができるんだから、温かい地方なのかも。カルルクはエイホン家の末子です。末子相続なので、彼が跡継ぎです。
一方、アミルの家、ハルガル家は、まだちゃんとは出てきていないけど冬は定住、夏は遊牧の移牧民。より伝統的な生活様式を守ってきたんじゃないかな。気候も寒そう。アミルの服が結構がっちりしていて、厚手に見えるんですよね。
で、このアミル。この時代で20歳の花嫁とは行き遅れもいいところ。周囲の目もあるし、体のいい厄介払い…… で、ハルガル家から地理的に離れたエイホン家へ嫁に出されることに。

エイホン家に今いるのは、(カルルクから見て)祖父母、現当主の父と母、姉とその婿と4人の子供、そしてカルルクとアミルの新婚夫婦。4世帯12人家族か!
日本にはもうほとんどない大家族が舞台ですが、これだけの人数がいてもやっていけるのは、多分家父長制がしっかりしているから、各人の役割分担がきちんとできているから、忙しいから。今みたいに家電がある便利な生活じゃないから、食事、洗濯、掃除、家畜の世話等々それぞれ分担してやらなきゃ生活が成り立たないし、姑が嫁の一挙手一投足に文句つけてる暇もない。嫁も嫁いだ家のしきたりに慣れなければスムーズにことが運ばない。
そして何より、互いの領域に足を踏み入れすぎないこと、なんでしょうね。精神的にも物理的にも。嫁を娶った以上、12歳のカルルクでも一人前とみなされる。
それを示すエピソードがありまして、ウサギを狩ってきたアミルの弓に、姉の子供たちは興味津々。アミルが矢を放って的に当てるのを見て、子供たちは父親に弓矢が欲しいとねだります。
そこで、父親は家長である舅に目配せして許しを得ます。さらに、弓矢を教えてあげてほしいという意味で、カルルクに「どうかな」と尋ねる。カルルクはアミルに「教えてあげてくれる?」と聞いて、アミルが諾意を示す。それでようやく弓矢を買う許可が出る。
家長の許可なしに「弓矢を買っていい」とは決して言わない。年下のカルルクの頭を飛び越えてアミルに弓矢を教えてやってほしいとは決して言わない。子供たちの父(カルルクの義兄)とアミルが直接しゃべってはいけないわけではないんです。彼がエイホン家の入り婿だから肩身が狭いというわけでも決してない。
アミルはカルルクの妻だから、こういう相談事というか決めごとについてはカルルクの頭を飛び越えない。それが自然のことなんですね。

理性的でどちらかというと都市的なカルルクと、穏やかだけどちょい天然で野性も纏うアミル。
周囲はアミルの年齢に戸惑いは感じているものの、穏やかにそれを受け入れていく。ちょっとね、腫れ物に触るような感じなんです。最初はね。
アミルの里の年配者が、ある思惑から「帰ってこい」とちょっかいを出してきてます。今回は祖母が威厳を持ってその理不尽な要請を突っぱねましたが、さて、この先どうなるか。
定住、遊牧、畑作、土地の使用権、国境など、時代のうねりを感じさせる言葉もそこここに織り交ぜながら、この年の差夫婦が段々「夫婦」になっていく様子が描かれる……のかな。
どう話が転んでいくかがとても楽しみ。早く2巻出ないかな!(1巻が出たばかりですよ)
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